投稿日:2014/05/26

綺麗事というレベルは、もう大半の人が見抜く目を持ってきていると思う2014年現在。

遠い昔の話しですが、ユーミンの「待ちぶせ」って曲に出てくる女の子を怖い女だとよく論じていました。
アイドル歌手の歌う可愛い声にだまされてしまいがちですが、友人の彼氏を虎視眈々と狙って、はかりごとを巡らし、いつか手に入れようとするって、確かにひどい女。
でも、私、この曲の主人公はそんな自分の醜さを、ちゃんと自覚してる、って感じがします。

一方、あみんの「待つわ」って曲の主人公は、一見一途な女の子に見えるけれど、「私待つわ、いつまでも待つわ、他の誰かにあなたが振られる日まで」って、好きな男の不幸を願うっていう自分の醜さ、わかってんの?って思ってしまう。
結構無自覚な感じがしちゃうのよ。この女は。

「無自覚の不遜さ」って、私が一番自分でも律しなければって思っていること。
人生において。
人は皆自分の考えという狭い中に陥りがちだし、それを正しいと信じなければ生きていけない生き物だけれど、
けれど、一方で、醜さとか、悪とか、自分の中に確実にあるものだから、私はそういう人間なのだ、というところからスタートすることが、大切だと思ってる。

そういう私が最近「これって、ちょっと気持ち悪いなあ」って思ったのが大飯原発運転差し止めの判決に対するネットに広がる共感の声。

原発停止で多額の経済的損失が出るとしてもそれは国富の流出や喪失ではなく、
「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」
とする判決文に対しての共感の声なのだけれど・・。

「人の命よりも大切なものなんてない」という誰にも文句つけることのできない鬼に金棒、伝家の宝刀を取り出して、諸手を挙げてそれに賛成する光景って、何だか気持ち悪い。

ヒューマンとか情とかって、文句をつけたものを非人間のごとく扱えるものだからこそ、厄介なものだと常々思う。
ある意味、そういう感情の部分の厄介なものに白黒つけるために裁判制度はあるところもあって。
人の思いとか感情を起点にすれば、それぞれにはそれぞれの真実があって、裁くことなどできないという地点までいってしまう。

情感豊かな訴いかけは、少々ルール違反だと感じるし、それに感動した!ってなるのは、やっぱり違和感。

危険極まりない原発を悪にしたい構図は理解できます。
でも、その悪の誕生は、自分に無関係ではない。
醜さとか、悪とか、私たち一人一人、自分の中に確実にあるものの欲望の果てが、人間が持て余す怪物を生んだわけです。

自分と無関係ではないと感じていたら、大変言葉は悪いですが、「お花畑」的判決文に素直に感動していられるだろうか。

「待つわ」の主人公のように
「無自覚の不遜さ」は時にとてもピュアで健気で美しい顔をしています。
それは「綺麗事だ」という批判さえ跳ね除けるけっこう「ふてぶてしい」ものです。

どうしたものやら、と思いながら、
この正しすぎる気持ち悪さを見据えていこうと思う日々。

マツイミユキ

コピーライター。
広告制作プロダクション、広告代理店勤務を経てフリーに。 我が強いくせに、気が弱いという二面性をもてあましながら仕事に励む日々。 尺八を習って10年という誰とも共有できない趣味と、茨城、笠間のガーデン・カフェに時々スタッフとして出没するという、自分でもよくわからないダブルワークを敢行中。




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